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<8.Gem Language(宝石言葉)>



「純粋」
あるいは「永久不変」


 晴れ渡る空を海鳥達が翼を揃えて飛んでいく。冷え込む季節にしては珍しく、今日のオールド・シャーレアンは比較的温かな日和だった。いつも研究に没頭する賢人や学問に励んでいる学生も、麗らかな陽気につられてベンチやカフェでのんびりとした時間を過ごしている者が多い。それもあってか、ラストスタンドは大いに賑わっているようだ。
 ヴァリが知神の港に立ち寄ると、濃い浅葱色のエプロンを身に着けたラストスタンドの店員が、忙しなく店とテラス席を行き来しているのが遠目にも見えた。店の階段を上がってカウンター前までやって来ると、やはり混雑しており会計前には列もできている。特に、ハート型のクッキーやチョコレートが多くディスプレイされている棚の前には、商品を吟味している客が多いようだ。
「ヴァリさん。いつものコーヒーとミルクティーでよろしいですか」
 すると、低い位置から自分を呼ぶ声が聞こえてヴァリは振り向いた。見ると黒縁眼鏡とラストスタンドのエプロンをつけたミナミが、やや得意そうにヴァリを見上げている。
「このヴァレンティオン絡みの商品置いたのミナミでしょ」
「ご明察です。おかげさまで売り上げが二十パーセントアップしました」
「あはは、商魂逞しくなっちゃって……」
「ヴァリさんもお一ついかがですか?スーさんのところへ行かれるのでしょう?お土産に持って行ったらいいと思います」
「……本当に逞しくなっちゃって……」
 結局ヴァリはコーヒーとミルクティーの他に、可愛らしくギフトラッピングされたハート型のチョコレートボックスを手に会計の列に並ぶことになったのであった。


 終末を回避したアーテリスには再び平穏が戻っていた。赤く染まった空は澄んだ青色を取り戻し、人々は平和な日常を謳歌している。
 世界の危機が取り除かれ、長らく活動を続けてきた暁の血盟も解散となった。彼らと行動を共にして脅威と戦ってきたヴァリ達も一冒険者に立ち返り、休止していたFCの運営を徐々に再開している。といっても、FCマスターであるスフェンの方針もあって、小さな案件を時折片付けるくらいで、しばらくの間は全員休暇扱いとなっていた。
 度重なる戦闘と緊張の日々に彼らが疲弊していたのは言うまでもない。他方で、各国の終末騒動における対応に協力した功績に対する報償があったおかげで、FCの国庫はこれまでになく潤っていた。以上を踏まえ、数か月間は各自自由に過ごして良し、との御触れがスフェンより出されたのである。
 ちなみにヴァリはというと、休みになっても特段いつもの生活と変わったところはない。単独で受けられそうな仕事をこなしながら、ヌーメノン大書院で本を借りては読む、という日常サイクルを繰り返している。それを休暇とは言わないのでは?と誰かから投げかけられたような気もするが、いつも通りが一番性に合っていた。
 ヴァリ以外は皆それぞれ羽を伸ばしているようで、活動拠点をここオールド・シャーレアンへ一時的に移している者もいた。ラストスタンドでコーヒーの味を盗むと息巻いているミナミなどが良い例だ。釣果を携えたウナギも、よく魔法大学の選者殿に足を運んでいるのを見かけた。
 スフェンもまた、シャーレアンを拠点としている一人だ。現在は短期入学という形式で魔法大学に籍を置き、週のほとんどをナップルームから大学に通う生活を送っている。講義や研究が忙しいようで、自宅に帰って来るのは週末くらいだった。それもあって、ヴァリはスフェンに何かと理由をつけて(最近はもう何の理由もなしに)会いに来るため、暇を見つけてはこうして足しげく北洋の都に通い詰めている。
 しかし、今日はその大学の最終日だ。スフェンを迎えに行くために学校までの緩い坂道を登るヴァリの足取りは心なしか軽快だった。


 ヴァリがフェノメノン大講堂の前まで着くと、何やら入口付近に人だかりができていた。何となく理由を察してヴァリは足を止める。案の定と言うべきか、数人の学生や教師に囲まれているのは、お目当てのスフェンだった。ラフなシャツの上から研究用の白衣を羽織っている彼の両手には、たくさんのプレゼントや花束が抱えられている。
「今日で最後なんて残念です……まだまだお話したい事がたくさんありましたのに」
「スフェンさん!この間の『カルディアと救命治療』の論文とても面白い内容でした!実戦の中でしか経験できない知識が満載で刺激になります!」
「スフェンお兄様~!いつでも遊びに来てくださいね!お待ちしております……ぐすっ」
 矢継ぎ早に話しかけられてスフェンは困ったような苦笑いをしている。周囲の勢いに押されて、ヴァリも呆気に取られたぐらいだった。大学で様々な交流が彼にもあったことが窺える。
「さあさあ、皆さんあまりスフェンさんを引き留めちゃダメよ。ほら、お迎えに来た方が困っているわ」
 考古学部の老教授ルルシャが示すと、ヴァリは集まった視線に少々たじろぎながら軽く会釈した。スフェンは人の輪から抜け出すと、ヴァリの横に並んでから友人らを振り返る。
「短い間だったけど有意義な学生生活だった。折を見てまた寄るから、そのときはよろしく頼む」
 スフェンがそう言うと、彼を囲んでいた学校関係者は惜しみながら彼を送り出した。



 スフェンの使っているナップルームには、書籍や生活用品がだいぶ増えていた。これらの私物を片付けてから自宅に戻る予定だ。ヴァリは椅子に座って部屋の状態を眺め、考えていたよりも早く今日は引き上げられそうだと思った。
「スフィの部屋、物はまあまあ多いけど整理されているから、片付けるにもそんなに時間かからなさそうだね」
「退出日に合わせて少しずつ纏めてたからな」
 ヴァリの買ってきたミルクティーを飲みながら、スフェンがチョコレートを口に放り込む。勉強漬けで日付感覚が狂うと言っていたので、今がヴァレンティオンの期間だと気付いていないようだった。
「戻ったらFCの活動も本格的に再開?」
「それもあるが……その前に皆で行かなくちゃならない場所がある」
 苦々しげスフェンが拳を握り締める。てっきりまた仕事に勤しむものだとばかり思っていたので、ヴァリはおや、と目を丸くさせた。
「まずは豊穣海の海底遺跡。それからブラインフロスト、その先にあるっていう秘宝の島も。新大陸の黄金卿も見に行くぞ。絶対、行くぞ」
 「絶対」の部分に力を込めてスフェンは言うと、他にもたくさん見て回りたい場所があるのだと宣言した。聞いたことがあるような気がしたと思えば、どれもレムナントの手前で再会したエメトセルクが見たと語っていた場所ばかりだ。
(悔しかったんだね……)
 負けず嫌いのスフェンらしい。おまけに仲間を全員連れて行くとすでに自分の中で決めているようだ。当たり前のように連れて行ってもらえるという事実がヴァリは嬉しかった。
 冒険者の血というものだろうか。薄い藤色の瞳を輝かせるスフェンの姿に、これは未踏の地を探索すべく忙しい日々が始まりそうだと思って、ヴァリは笑みを深めた。
「何はともあれ、準備のためにまずは家に帰るのが先決だな」
「ようやく家に帰って来るんだね……長かったなあ」
「そうは言ってもちょくちょく戻ってただろ」
「でも週末にしか帰ってこなかったから……オレは寂しかったかな」
 ヴァリがコーヒーのカップの縁からちらりとスフェンに目配せすると、彼はやや唇を尖らせてもごもごと呟いた。
「……ま、俺も北洋の夜は一人じゃ少し寒かった……気がする……」
「スフィ……今のもう一回言って」
「もう言わない」
 明後日の方向を向くスフェンに苦笑して、ヴァリはすぐ隣に座っている彼に手を伸ばした。
「こっち向いて、スフィ」
「……」
 柔らかな髪を撫でてから頬に手を添えると、おずおずとスフェンが振り向いて視線がかち合った。それが合図であったかのように、二人は目を閉じ自然と口付けを交わす。
「ん……」
 抱き締めながらキスをするヴァリの首にスフェンも腕をまわす。息継ぎをしながら次第に深くなる口付けに酔いしれた。
 スフェンの指がヴァリの金糸をさらさらと梳き、その後ろ頭を愛おしげに撫ぜる。お返しにとばかりに毛並みの良い尻尾を触ると、そこは駄目だと手を払われた。
「は、……」
 しばらくして唇を離すと、スフェンの眦は上気してすっかり朱に染まっている。愛らしい、可愛らしい。ヴァリの中でそんな感情が膨れ上がり、目元や頬はもちろん、手の甲や指先にまで口付けを落としていった。とりわけ、左手の薬指に恭しく唇を押し付ける。
「ヴァリ……?」
 いつもと様子の違う恋人に首を傾げて問いかけると、顔を上げたヴァリは躊躇するように口を閉じたり開いたりを繰り返したあと、意を決した表情でスフェンの手を両手で握り締めた。
「あのさ……スフィ気付いてないかもだけど、今ってちょうどヴァレンティオンの期間なんだよね」
「ああ……そういえばもうそんな季節か」
「だからってわけじゃないんだけどさ……えっと……」
 珍しく歯切れが悪い。そのうえ顔も赤くなっている。出会ったばかりの頃に比べると、ヴァリも随分表と情豊かになったものだ。そうスフェンが考えていると、当のヴァリは何やらポケットを漁って小さなケースを取り出した。
「これ、スフィに。受け取ってくれる……?」
 ヴァリが恐るおそるケースを開くと、中にはよく磨かれた銀の指輪が一つ入っていた。そのシンプルなデザインに見覚えがある気がして、スフェンはどこで見たのだろうと記憶を辿る。
「指に嵌めてもいい?」
 スフェンが頷くと、ヴァリは口元を緩めて左手を取った。それから緊張した面持ちでスフェンの薬指に指輪を通すと、先程と同じようにその指に口付ける。
「貰ってくれてありがとう」
「……物貰って逆に礼を言われたのは初めてだな」
 スフェンのぶっきらぼうな返答は照れ隠しだった。鈍い彼も、左手の薬指に指輪を嵌める意味は知っているらしい。きらりとしたその輝きを見つめる顔は、まんざらでもなさそうだった。
「あ」
「ん?」
 すると、突然スフェンが短い声を上げてヴァリの胸元を凝視する。
「どうりでどこかで見たデザインだと思った……この指輪、お前がいつも首から下げてるのと同じだろ」
 スフェンはそう言ってヴァリの詰まった襟元に半ば無理やり指を突っ込むと、チェーンを指先に引っかけて彼の指輪を強引に引っ張り出した。色合いや形は完全に一致している。違うのはサイズだけだ。まごうことなきペアリングである。
 薄っすらと残るスフェンの記憶が確かであるなら、ヴァリは第一世界から帰還してしばらく後からずっとこの指輪を身に着けていた。
「お前……さてはこの指輪、だいぶ前から用意してたな……?」
「うん……」
 いつ渡そうかと機会を窺っていたのだと、消えるような声量でヴァリは溢した。
「本当はウルティマ・トゥーレに発つ前日に渡そうと思ったんだけど、その、タイミング逃しちゃって……でも、後になってすごく後悔してた。何であの時渡さなかったんだって」
 ヴァリの脳裏に、終焉を謳うものとの戦いが思い起こされる。
レムナントの最奥部でその絶望と対峙し、押し寄せる強力なデュナミスの力に圧倒された仲間達は瀕死に近かった。そんな中、ヴァリは何とか皆を逃がそうと、時間稼ぎのため一人その場に残ることを選択した。当然、勝機など微塵もない。どう足掻いても敵わないと死を覚悟したとき、心に浮かんだのは指輪の存在だ。
 いつも明日渡せばいいと思っていた。明日が当たり前のように訪れるのだと信じていたから。
「だから帰ってきたら今度こそ絶対渡そうって考えてた。……こうしてスフィの指に直接嵌められて嬉しい」
「ヴァリ……」
 幸福を詰め込んだようなヴァリの微笑みに、スフェンの胸はぎゅっと締めつけられた。きっと今ここにエルピスの花があったなら、それは見たこともない美しい色をしていただろう。それはそれは鮮やかで、夢のような色彩に染まったに違いない。
「……ありがとう」
 スフェンは手にしたヴァリの指輪に唇を寄せると、彼の体温が少し映った銀色の誓いに口付けた。

「ずっとずっと、大切にする」



 光陰矢の如しとはよく言ったものだ。季節の巡る早さときたら、マリーが目を回しそうなほどである。『彼』から靴を貰ってから、また新しい春が訪れようとしていた。
 あれからマリーの生活は変化の連続だった。ナナモ陛下の命により貧民街への支援政策が国ぐるみで行われ、そのおかげで彼女は現在継ぎはぎだらけのテントの代わりに石造りの集合住宅で暮らしている。また、スラムを支配していた大人達はいつの間にか姿を消し、住民の生活はうんと改善された。貧しさを加速させていた『家賃』の取り立ては、あれから一度も行われていない。
 そればかりか、新しい職にも就けた。マンダヴィル・ゴールドソーサーのスタッフとして雇ってもらえたのだ。マリーは文字も勉強中であるし、まだまだ一人前とは言い難かったが、それでも毎日やりがいを持って働けている。その日生きるために身を粉にして働いていた時とは雲泥の差だ。まるで靴が幸運を運んできてくれているようだと感じた。この靴を貰ってから良い事続きなのだ。
 ゴブレットビュートを目指してザル回廊を進むマリーの足取りは、彼女の着る真っ白なワンピースのように軽やかだった。ワンピースはゴールドソーサーで働いて初めて貰った給金で購入した品で、彼女のお気に入り、言わば勝負服だ。見せたい相手は決まっている。マリーに幸運を授けてくれたひと、スフェンただ一人だ。
 途中通りかかった広場の噴水で身だしなみを入念にチェックする。いつも煤けていた茶色の髪は亜麻色に。あかぎれだらけで乾燥していた手は綺麗になっている。初めて会った時より背も伸びて、大人っぽく見えるのではないだろうか。
「可愛くなったとか言われたり……えへへ」
 年頃の少女は、想像だけで有頂天だった。早く会いたい、その気持ちが彼女を冒険者居住区へと導いていく。手には約束通り、彼のための花が入った籠が握られていた。


 しかし、人生は兎角ままならぬものである。マリーが忙しくしていた間に流れた月日は、様々な変化を意中のひとにもたらしていた。まず、家の前に掲げられたサインボードに見知らぬ名前が追加されている。スフェンはこの「ヴァリ・レッドマール」なる人物と生活を共にしているらしい。そして間違いでなければ、現在進行形で庭の奥でスフェンと一緒に洗濯物を干しているエレゼンの男性が件の同居人だろう。
 それだけの変化であるなら、マリーも元気に「お久しぶりです」とその背中に向かって声をかけていた。だが、陽の光を反射して、きらりと輝く銀の指輪がスフェンの左手薬指に嵌っているのを見てしまったため、門前で蹈鞴を踏んで急停止したのである。女の勘が告げているのだ、ここから先に進んではならないと。
 不意に風が吹いて、真っ白なシーツが巻き上げられる。よく晴れた空を背景にバタバタと舞う洗いたての衣類からスフェンを守るよう、「ヴァリ」がその肩を抱いた。二人の話し声はマリーの元まで届かなかったが、強風に驚いたのかお互い目を合わせて笑っている。スフェンの笑顔は彼女の記憶の中にあるものよりずっと柔らかで、幸せそうだ。強い輝きを放つ宝石のような瞳は、目の前にいる「ヴァリ」だけを見ている。


 そうしてマリーの恋は、何も始まらないまま散っていった。





春のきらきらとした日差しの下、白い髪が光って銀色のようにも見える。澄み切った水色の空に、清らかな光を放つ銀の指輪と、彼を守るように寄り添う金の髪。
あの日と同じ。夢幻に見た白く光る春の庭。それは眩く、目を眩ませるほどの光で、ありし日と変わらず輝いていた。



終わり